カタカナ | Network, Nord

私は、なるほどねえと、後から仕組みの名前を理解することが多い。

なぜかといえば、そうです、名前問題。

私は名前の把握が遅い。


物や人を、名前では判断していない私独自のシステムがあるからだろう。

これは、私の弱点だ。

意識しないと、そこには目が向かない。

興味を持たない。


けれど、他人と何かを共有しようとするなら、この物質界、そこには名前が必要だ。


そして、名前というラベルを貼ると、物事一気に進むことがあるというのは、この10年くらい、体験し続けた。



そして、今、意識的に、ネットワークを発展させるという視点を加えた。

つながり。

つながりを、ネットワークと書くと、賢そうに見える。

まあ、ようは、つながり。


つながりの節目、節目を、ノードというが、これも、ノードと書くと、賢そうに見える。

この仕組みは新しくはなく、太古からあるが、カタカナにすると、なんだか、そこに新鮮な響きがもたらされる。


というわけで、私は、最近、人生の中に、ネットワークとノードというカタカナを導入した。


「つながりの相乗効果」より「ネットワーク・エフェクト」の方が、まあ、なんとなくかっこよく、賢そうに見えるわねと。


ただ同時に、名前のラベルがカタカナになると、本来、なんら理解するのが難しくなく、誰でも体験として知っているものが、理解しづらくなることがあることも理解している。



私がわかりやすい例だ。

この類のカタカナ用語は、育った環境の中では学ばない。


けれど、つながりそのもの、は、誰しも育つ環境の中にある。

もっといえば、生まれる前からある。

なんの繋がりとも関係せずに、この世に誕生できる人間はいない。


どんな人も、両親という2人の男女のつながりから誕生する。

これから増えていくのだろう人工授精だったとしたら、さらに、そこには第三者も存在する。

やがて、人工子宮の中で命が誕生しはじめたとしても、そこには、誰かしらがいる。


この場合、父と母がノード。

そこに、体や愛情、生活など、2人の間の関係性がある。

これが、リンク。


さらに、その父と母には、それぞれの家族や友人、仕事関係者、所属する社会などがあり、そこには、すでに複数のネットワークがある。


そして、子供が誕生する。


子供は、生まれた瞬間、それらの環境という名のネットワークの中の新しいノードとして、誕生する。


そして、家族という名のネットワークの中に、新しい効果を生み出す。


つながりの効果。


それは、例えば、父と母に、やる気をもたらしたり、不仲の原因を作ったり、影響自体はさまざまだ。


「子供が生まれて、生きる気力がわいた」父親、母親の話は、腐るほど、ごろごろしており、それは、子供というノードの存在が、そのネットワークに与えた効果だ。


その効果の影響は、家族のネットワークだけにおさまらず、父母が所属する仕事へも波及する。

そこに、子供は直接関係しないが、異なるネットワーク同士は、父母というノードが変化したことで、互いに影響を受ける。


そして、おそらくは、父母が所属する仕事のつながりの中で起きることが、父母の職場のつながりの中にいる人々というノードにも影響する。



という風に、人との繋がり、ではなく、ヒューマン・ネットワークに話をしてしまうと、淡々と語れるのは、カタカナの効果だろう。


体験から覚えたのではない言葉は、感情を伴わない。


(だから覚えにくいし、理解しにくいこともある)



私が、カタカナを覚えるときは、今みたいに、物語を組み立てて、日常の低いレベル、自分が想像しやすいとこるに話を落とし込む。


すると、それは、ただ、すでにある事象に、名前をつけただけのものであることがほとんどだ。



特に、クリーンランゲージ&シンボリック・モデリングで、何かモデルが登場する時は、それは、必ず、太古からある世界共通モデルと考えられているものだ。


シンボリック・モデリングは、思考のイノベーションではない。

なぜならば、シンボリック・モデリングは、思考法ではないからだ。



個人個人が、自分独自のその人にとって機能するいわばカスタマイズされた思考モデルを生み出していくのを、サポートするための方法だからだ。


イノベーションということでなら、思考のイノベーションを生み出す側にあるものだ。



だから、そこに登場するモデルやパターンは、誰でも、知ってる、はず。

体験として、持っている、はず。

そういう普遍的なものを、選んでいるはずだからだ。

賢そうに書くならば、元型的なモデルですね。

ようするに、古くからあって、未だ、誰も異論は唱えていないモデル。


(独自モデルも一部あるが、作りはやはりシンプルだ)



言葉はカタカナなせいでややこしくなるのだが、学んだり使ったりするときに、自分自身の感情が動かない方が、そこに投影が起きにくいのも確かではある。


感覚として覚えにくいのも、また、確かだ。


どちらがよいのでしょうねえ、と、私は少し考え、そして、カタカナと、それを理解するのをサポートできる物語のレパートリーを増やしたらいいのかなと思った。

自分自身にも、他人にも。


物語は、コンセプト的なものと、メタファー的なものの二種類あれば、まあ、だいたいは、伝わる。



最終的にはシンボリック・モデリングが思考法ではない限り、それは、質問の構築に落とし込まれる必要がある。

瞬時にそれが直感的に、質問として浮かばなければ、この場合は、意味がない。


だから、どちらかというと、覚える必要があるのは、言葉の名前ではなく、その言葉が伝えている仕組みや形(システム、モデル、フォーム)だ。


これは、多分、名前を覚えるのが苦手な人たちも得意。

それは、理屈はないから。


理屈はなんでも後付けだ。

逆に、もしも、これは新しい、これは知らないわとみなが思う仕組みやモデルがあれば、それはシンボリック・モデリングでは使えない。

それは、こう考えなさいという押し付けになる。


それは、人が思考法を生み出していくのはサポートするが、人が思考法にその思考をあてはめていくことはサポートはしていない。



カタカナがね、事をややこしくしているが、話は、そうは難しくない。


難しくないのだということを、いかに伝えていくか、それもまた、私の課題である。