「小さな島国」という文化的刷り込みの容器のスキーマ | 徒然なるままにシンボリック・モデリング考察
今朝、ふと、以前された質問が頭に浮かびました。
質問主は、日本で暮らすアメリカ国籍の人です。
本人はご存知ないですが、私はこの人のことを「思考の天使」と呼んでいます。
なぜならば、その人がふとする質問は、いつでも私の思考に、素晴らしい影響をもたらすからです。
もうその人が書いていたはっきりした言葉は忘れてしまったけれど、その人が気になっていたのは「小さな島国」という日本を表す比喩についてでした。
それで、私は、日本で生まれ育った人(国籍ではなく、日本という土地で生まれ育った人)が共通して持っているかもしれない容器のスキーマに気がついたのです。
土地は、舞台背景です。
土地に関わるメタファーは、そのメタファーが登場するランドスケープ全体に影響します。
どういうことかというと、魔法の国で起きる出来事と、戦場で起きる出来事は、そもそも違うということです。
例えば、自分の人生を魔法の国で過ごすと思っている人と、人生は戦場のようなものだと思っている人に起きる出来事は、実際に違います。
それで、私は、もしかしたら、日本で生まれ育った人の思考にこの「小さな島国」という容器のスキーマが、ものすごく影響しているかもしれないと思ったのです。
それくらい、「小さな島国」という日本を形容する言葉は、日常の中に普通に溢れているからです。
現実としては、日本は「小さな」島国ではないというのがその人の話で、その人は、今の子供たちが社会で習うデータを並べてくれました。
たしかに、数字で見る日本は、領土も小さくないし、経済力、軍事力、政治力も、決して小さくはありませんでした。
それで、それにもかかわらず、「小さい島国」
この「小さい」はいったいどこから来ているのかが、そのとき、その人が私にした質問でした。
そのとき、やりとりの中で、私は「自分の小さな島国は、ユーラシア大陸から来てる」と書きました。
自分に質問してみたのです。
「私の<小さな島国>は、どこから来たの?」と。
日本の領土の隣には、世界最大の島があります。
そして、その答えを手に入れた私は、<自分の場合は、この「小さな島国」には、個人的な感情は何もなく、単に、「日本はユーラシア大陸より小さい」という意味>だと書きました。
その人は、同じようにユーラシア大陸の隣に住んでいる「イギリスの人たちは、イギリスを小さな島国だと感じているだろうか?」と、さらに疑問を深めたようでした。
私は、「多分、感じていないと思う。Great Britainと言うから」と書きました。
このやりとりは、英語で行われたものでした。
さて。
私はそのやりとり以後、「小さな島国」という表現には、何かありそうだなと耳を澄ませました。
そして、いつ、この表現が生まれたのかにも興味を抱きました。
とても歴史ある表現のように思えたからです。
日本育ちの人々のメタファーには、自然に関わるものが多く登場します。
人生そのものに関わる話には、特に登場する傾向があるように思われました。
エージェンシー(この場合は仲介、触媒)にも、自然はよく登場しました。
自然は、世界どこでもそうでしょうが、日本の暮らしにも大きく関わります。
はっきり言って、日本の暮らしは豊かな自然育まれ、同時に、気ままな自然に振り回されています。
水、雪、山、川、海、雨、風、地震、噴火、洪水、空、天気、気温など。
そして、その全ては、「小さな島国」という領土の上に存在します。
そして、それから、自分自身についても気がつきました。
私のメタファー・ランドスケープの世界の中で、私は、いつも、地面をリソースとしては表現しません。
私は地面を自分の可能性を限定するものとして表現します。
私は、対して、空や海を、自由の象徴として表現することが多いのです。
私は思いました。
「まあ、そうね、日本の地面は時々割れるから、私自身があまり信用していないのも無理はないな」と。
しっかりとした土台としては、私は地面を捉えてはいないのでしょう。
「グラウンディング(地に足つける)より、背中に羽根がある方がなんぼか安全だ」と、私の潜在意識が判断したとしても、無理はありません。
私は、地震で揺れ割れた地面を、人生の中で体験したことがあるからです。
私の実家はいまだに住める程度に、傾いています。
しかし同時に、私は、自分が地面をリソースとしては表現しない理由の一つに「小さな島国」や「島国根性」という日本独特の共通メタファーもまたなんらか関係しているのではないかと考えたのでした。
私が地面を表現するときのことを思い出してみると、そこにはいつも、いくばくかの窮屈さや不自由さ、それから障害が存在したのです。
ただの地面を表現しているのではなく、その奥に「小さな島国」と「島国根性」の存在を感じさせるものを、私は、自身の表現から読み取りました。
この場合、自身のメタファーですので、その奥にあるものは、自分で読み取れます。
(他人のものをそうしたら、それは、<単なる思い込み>の場合も多々あります)
あるとき、これをおしゃべりの中で話した私に、よく笑う魔法使いが「それを、文化的刷り込み(Cultural Inprinting)というのよ」と教えてくれました。
そのとき、私は、「自分はちっともステレオタイプの日本人ではないけれど、この表現は便利なので、私は、外国の人たちと接する時に、ちょっと卑屈になる自分を表現するときには、ステレオタイプの日本人のふりをするんです。とても便利だから」と言ったのです。
(私は、自分が日本人であることには何ら卑屈な感じは持っておらず、単に英語がうまく使えずイライラしているだけのことが多かったのですが、「日本は小さな島国だから、自分は自分の考えをうまく表現できない」という表現は、私にとって、ひじょ〜に!便利だったのです)
それを聞いて、魔法使いはケラケラ笑い、それから、「文化的刷り込みは、割と思考への影響が大きいわよ」と言いました。
そして私は考えました。
私の印象では、日本で生まれ育った人の個人個人の内的世界の空間は、そんなに狭くないように感じています。
むしろ、外国人にセッションをする時より、内面世界の広さは広いようにすら感じることがあります。
メタファーも非常に多様で、表現も豊かです。
表面的には、日本人は、似たような見た目に、個性が薄いまるで自分の考えはないかのような似たような行動を同調してとっているからこその、内面の広がりとでもいうか。
多神教が許容できる世界観がそこにはあります。
本当に、メタファーの世界にしてみると、内面的には自由で豊かな世界が広がっているのを、本当に、よく見ます。
それで、私は、現実的に、日本は行動でまとまっているのであって、思想でまとまっているわけではないのだなとよく感じています。
しかしもしも、その人の意識上が、この「小さい」容器のスキーマに支配されていて、その人が自身の体と繋がっていなければ、その人は、人生を可能性が限定されたコンパクトなものとして捉えている可能性があります。
そして、ああ、また、日本だけにあるかもしれないシンボリック・モデリングの効果を見つけたぞと、私は思いました
「自分自身の内的世界サイズと、自分自身の意識をつなげ、より人生の可能性に広がりをもたらす」がそれです。
「小さな島国」という文化的に刷り込まれた容器のスキーマが、その人自身が実際に持っている人生の可能性を狭めているかもしれない可能性があると思ったのです。
そして、以下が、今朝の仮説です。
容器のスキーマを日本語に適用する場合、話は、容器の内外だけではなく、上、それから、外の外も関係してくることがあるかもしれないな。
領土の上には、空、があるから。
領土の外には、海、そして、外の国があるから。
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