固定化された訳・・・ないね、これ。

ここにきて、私は、ううむと再び、頭を抱えた。

私が翻訳している文章には、参考文献が多々あり、引用も多々あり、その引用部分の翻訳は、もう今すでに翻訳してあるものを引用しよう!それが早いね!と、私は最近、amazonと図書館を行ったり来たりしている。


そして、さらに頭を抱え始めた。

ううむ。

固定化された訳がない言葉が、むっちゃ多いことに気がついたのだ。

例えばですね〜。

わかりやすいところで。

Metaphor We Live By

という有名な本がありまして。
内容はまあおいておきまして、このフレーズをどう訳すかというのは、私には割と大きい仕事なのです。

この本は、日本語もあります。
日本語の本のタイトルは、「レトリックと人生」

(私は、20代の頃に一度、この本は読んだのですが、すっかり忘却の彼方に飛んでいたところに、40代になって、再び、今度は、日本語と英語の両方で向き合うことになりました。
なんか縁があるのだろう。
そして、この本の中に登場する英単語をどう訳すかというのが、色々、パズル状態になっています。)

さて、翻訳者の人も、このMetaphorは、レトリックじゃないということはわかっていて、レトリックという言葉をタイトルには選んではります。
しかし、この場合、話は、そこじゃない。

We Live By

人生と訳されている部分。

今、私が、翻訳に携わっている人の話の中にも、Metaphor We Live Byは、ちょいちょい登場するのですが、その人のWe Live Byは、人生じゃないのよ、多分ね、ということだけは、私にもわかるのです。
metaphorと私たちの間の関係性が、Live Byということだと思われ。

さあ、この文脈のMetaphor We Live Byの日本語はなんや?!と、なっています。
シンボリック・モデリング的にいうなら、MetaphorとWeの関係性がLive By。
この関係性は、どんな関係性?


私をさらに困惑させているのは、このMetaphor We Live Byに、いろんな人が、いろんな訳をつけていることです(笑)
本のタイトルは、タイトルとして。

固定化された訳はなさげだね・・・どうも。


その他の用語も、多分、これらの用語を主に扱っているのが、英文科の人々で、英単語のままで話がいけるというのもあるのでしょう。
おそらく、その人たちは、記号としての言葉は、英語でいけるんだろうと推測します。
参考文献も、英単語と日本語が入り混じっているのものが多い。

「そこ!そこを日本語にしてよ〜!」と、知識そのものというより、日本語が欲しい私は、よくぶつぶつ言っています。
日本語に概念がないからって諦めないで!(自分は諦めて訳を探しているのは、棚にあげる)
日本語に翻訳して〜!と、専門家の人々にぶつぶつ。

というわけで、日本語の訳に種類があるものが多いということに、私は気がつきました。
それぞれの人の理解で訳してあります。
むちゃくちゃ違うということはないけれど、微妙に違う。

そして、年代が変わると、訳が変わっていっている。

自分はどれを取る?と、頭はくるくる。

これは例えば、Image Schemaという言葉。
この言葉は、しばらく、私の周りをうろちょろしていました。
(ボチボチ、次の言葉に話は変わる)

語学学習の分野で、イメージ・スキーマとか、イメージスキーマとかいう名前でよく使われてます。
英語の前置詞をイラストで描いたイメージスキーマは、見たことがある人が多いと思います。

この言葉。
古い本の訳は、想像的図式、とか、イメージ図式、とか、なんか色々。

訳は、本が縦書きか横書きかでも、なんとなく変わっている感じもする。


そもそも、概念は、客観的理解ではなく、主観的理解がそこにあるという学問の話ゆえに、誰もが同じでなくていいという土壌があるのかもしれません。


そして結局、私が辿り着いたのは、自分の感性で訳そうという境地でした。
ある程度は調べるけど。

私が見てきたもの、私が感じてきたもの、「彼/彼女だったらきっとこういう」と自分が思う用語。


そして、それから、それとは別に、簡単な言葉に書きくずしたものを、最初から日本語で書こう。
日本語の理屈で。

だって、読み手は、この場合、英語が勉強したい人たちじゃないんだもん。
そうしなきゃ無理だ、となんとなく諦めがついたのでした。

(基本に、私はめんどくさがりという性質があるので・・・
 諦めるという手順を必要といたします。
 そして、果てしなく効率化を求める(笑))


でも、考えようによっては、頭の中が、うんと自由に解放された気分になりました。

正しい訳がない、(文脈に適切な訳はあるだろう)、という世界の文章を翻訳する作業に、心が少し踊るのを感じた夏の日でした。