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最近、親の考え方、教育方針が子供に与える影響の大きさを、つくづく感じている。
セッションでも、だいたい30〜40才の人達がそこに立ち向かい、精神的に自立していくのを手伝うことは、ままよくある。
だから、それは、その人が一人前の大人として生きていけるようになるまでのサポートでしかないということは、よく知っている。
親の考え方や教育方針は、自転車の補助輪みたいなものだと認識している。
子供側が苦戦するのは、その親の考え方や教育方針が、親の人生ではうまく機能していた時だ。
問題があったなら、こんなもんはいらん!捨ててしまえ!と、子供は思える。
しかし、それがうまく親には機能していたところを見て育っていたり、自分自身にも子供の間はうまく働いていた時、そこからの脱却に子供は苦戦することがある。
ということは、たくさん見た。
親が悪いのではなく、ただ、親の人生と子供の人生が違うだけの話だ。
多くの場合、親にあったのは、ただ愛で、ただ子供に苦労させたくなかっただけだろうなと、話を聞いていると感じることが多い。
ここからは、私の話。
なんども書いてきた妬み問題の根っこは何かに、最近、私は気がついた。
(ちなみに今もう、私はそれで悩むことはない。年を取るとは素晴らしい)
根っこは両親の教育方針だ、と。
「ひとつランクを下げて、自分が上にいられるようにするのがいい」と、鶏の例え話を使ってされたそれ。
もう一つ、「みんなと一緒」
こちらは、両親だけではなく、私が育った昭和の概念だ。
そこに加えて、私の両親は、「個性重視」タイプだった。
この組み合わせが、妬み問題の根っこだと、私は最近気がついた。
個性を尊重するならば、みんなと一緒はありえない。
一つランクを下げて、自分が一番上ならば、みんなと一緒はありえない。
そして、私は選んだ。
ランクは下げない。
みんなと一緒でもない。
個性は重視する。
もう、上と前しか見ない。
上と前には、妬みはない。
相手をする必要もない。
だって、自分より優れた人しかいないから。
私は、いつでも下っ端だ。
私は、他人を妬まない。
妬まないというか、意味がよくわからないのだ。
私はいろいろと何かが欠落している。
感じられない一つが妬みだ。
他人が持つものは、私には、何の意味もない。
欲しけりゃ自分の手に入れる方法を考えるまでだ。
両親が教えた方法は、妬みがある社会の中を幸せに生きていける方法だったのかもしれない。
しかしながら、娘は、会社員であることを辞めた。
人と組むのは、協力し合う時だけだ。
そして私の目は、日本の中だけを眺めなくなった。
さらに、私には子供がいないから、ママ友付き合いをする必要がない。
私は、両親が願ってくれた幸せな人生モデルからは、かなり外れてしまった。
それでも、その教育方針が私の中に確固として残っていたことに、人生半分以上が終わった後に、気がついた。
「君の人生に、僕の考え方は使えないよ」と、父自身が、会社を辞めた私に何度か言っていたのを聞いていたにもかかわらず。
「お母さんの骨は海にまいてちょうだいね。お姉ちゃん(私)は、その頃、日本には住んでいない気がするのよ。海なら、繋がっているから、お姉ちゃんにも会いにいけるでしょう?」と、予言者のようなことを、何度か母が言ったにも関わらず。
ちなみに、私は、その頃、イギリスにいると母は言った。
私がクリーンランゲージに出会う前の話だ。
現実的には、私は、主には日本にいるのではないかと思うけれど、私が勉強しているのはイギリス英語だ。
(仕方ないから)
ともかく。
愛すればこそ、が、ときに一番やっかいだということを、最近、つくづく感じる。
そして、自転車の補助輪を、自分が完全に外すには、今の両親を見る必要があったことも感じている。
親の愛とは、なんとも深い。