Misiaからの
Fuji Rock FestivalのMisiaのステージをYouTubeで見ていたら、頭に浮かんだ話。
私は、Misiaが歌うと胸がポカポカする。
私が最初に知ったゴスペルは、まだクリスチャンになるはるか前、二十代の頃、彼女が歌うThe Glory Dayだ。
さて。
同じ教会の人に、「あなたはまるで、10年以上クリスチャンな人のようだ」と言われたことがある。
それを聞いて、クリスチャンて何?と、私は考えはじめた。
2年前、クリスチャンになった後、私は生きるのが大変楽になった。
自分がすることには、私自身に何の得があるのかと一見思われる内容が混じっている。
だいたいの理由は、自分が楽しかったり、面白いと感じるだけのことが、私のモチベーションだ。
黄色いバスもそうだ。
それが叶うなら嬉しい自分が見える、ただ、それだけの理由だ。
私が、楽しい、面白い、嬉しいと感じる条件には、他者の喜びや笑顔がそこにあることが含まれているから、誰か自分以外の人も幸せになりそうなことを、私は考える。
けれど、あくまでも、自分のためだ。
自分がそう感じる条件にそれが含まれているからだ。
だから、公共の利益に繋がりそうなことを思いつくことが多い。
しかしながら、私の発想のそこに、善、という概念は含まれない。
私は、善、は、めんどくさいし、性に合わないし、そもそも、善という概念ほど適当なもんはないと思っているからだ。
人間は、善のために、戦争する。
世界中の戦争で、善が絡まない戦争はないだろう。
楽しむために、喜ぶために、嬉しくなるために、殺戮は起きない。
善のそばには、悲しみと憎しみ、恨みが必ず存在する。
ともかく、以前は、何か、自分が思いついたことをしようとする時、たまに、うさんくさがられたりすることがあった。
常識的には、私が思いつくことは、善にカテゴライズされそうなことで、私のキャラクターとやや離れているからだ。
私は、人が笑っているのが好きなだけで、人の笑顔が大好きなだけだが、ややわかりにくいようだった。
クリスチャンになった後、そのわかりにくさが解決した。
なぜ?と尋ねられたら、ただ一言言えばいいのだ。
「私、クリスチャンなんですよ。」
すると、相手は、とても嬉しそうな顔で納得するのだ。
ああ、と。
私は、自分がクリスチャンなんだというだけで、人を嬉しい気持ちにできるなんて、こりゃすごいと思った。
加えて、その人の中にあった私への胡散臭さが消えるのだ。
便利だ。
なんて便利なんだ〜!ありがとう!ジーザス!と、私は思っている。
やりやすくなった。
生きるのが楽になった。
ひとことで済むようになったからだ。
こんな人のどこが、長いクリスチャンのようなのか、私は、やはりまだ考えている。
そして、長いクリスチャンってなんや?と考えている。
私は、ただ、日に日にジーザスのことは好きになる。
お願い(お祈りとも言う)を聞き続けてくれる神さまへの信頼は、爆上がり中だ。
死ぬかもしれんなと思うたびに、歌で励ましてくれるのが好きだ。
びびりのありとあらゆる恐怖を取っ払ってくれる優しさが好きだ。
めんどくささを取り除いてくれた便利さが好きだ。
ただ、好きだ。
信頼と好き、それしかない。
何かを好きになるのに、時間の長さには意味がない。
クリスチャンになって起きたことは、好きなものが増えただけ。
私は、私のままだ。
やっていることは変わっていない。
考え方は日々変わるが、それは、見えない神さまが変えているのではなく、見える世界、関わる人々の影響を受けて変わる。
共に生きる愛おしい人々、共に生きる愛おしい世界。
そんなことを考えながら、Everythingを聴いた。