学歴と劣等感
キャリアシートを書く時には、学歴を書くが、現在、私のプロフィールには、ほとんど自分が卒業した学校名は登場しない。
学校は、通った記憶は役に立っているが、名前は役に立たんからだ。
学部名はたまに役に立つ。
私の仕事相手は、ほぼ100%、自分より学歴が高い。
クリーンランゲージもそうだ。
共に学ぶ人たちは、高学歴なことが多い。
ハーバードを出た人、オックスフォードを出た人、東大を出た人が普通にいる。
彼ら、賢い。
記憶力が尋常ではない。
私はたまに、自分がなぜにこんなことになっているか首を傾げる。
なぜ、そんな中にいるか。
正直、必死だ。
父も首を傾げていた。
なぜに自分の子供がこんな勉強しているか?と(笑)
(ただ、私は、小さい頃、高卒の父が、会社内で大卒の人と同レベルの能力があると証明するための試験を受けるために、勉強し続けていたり、生活のために必死に外国語を勉強する母の後姿を見ながら育った。)
ともあれ、我が両親は、子供への期待値が低い。
「親をバットで殴り殺さないうちの子たちは、いい子たちだ」と両親とも言っていた(期待値、低すぎるわ。笑)
私も妹も、今では、彼らにとって「とてもいい子たち」だ。
殴り殺さないという理由で(笑)
まあ、親が満足しているなら、それでよい。
いい子は、親の自己肯定のために存在する。
そんな我が家の教育方針は、ランクをひとつ下げて、上位にいなさいというものだった。
理由は、劣等感は人間性を歪める、ならば、それを抱かなくていい中にいなさいというものだった。
それは、高学歴の人たちの中で働く父が、周りを見ていて、東大を出ているのに、ハーバードではないと劣等感を抱くようなことがあることからだったらしい。
父自身は、劣等感は抱きようもなかったようだった。
今、私も、劣等感は抱かない。
むしろ、賢いな!と、周りを素直に尊敬する。
そして、自分の発想を委ねる。
続きを賢い頭で考えてもらうために。
最たるものが、私の文通相手とのやりとりだ。私の文通は数年、英語で行われている。
だいたい、こうでこうでと書いたら、まず、最初に「君が言いたいのはこういうことか?」と、文章を整理してくれることから話は始まる。
まず、そこから(笑)
ああ、そう、それです!と、私はなる。
ならば、と、賢い経験豊かな頭脳は、惜しげもなくこうやってみなさいと、提案をくれる。
こう考えてみなさい。
おお!と、私は感動し、また本を読んだりためしてみたり、なんだりかんだり考える。
そしてまた思いつく。
仕事も、なんだか似たようなことが多い。
私には、彼らの記憶力も、賢さもないから、提供できるのは発想しかない。
あと、必死で勉強することね。
そこには、学歴とか、もう意味がない。
ということを、進路を検討中の姪っ子に話した。
学校を出て20年もすればもう関係なくなると。
やりたいこと、楽しいこと、好きなこと、得意なこと。
それは、学校の名前とは関係がないということ。
賢さは賢い人から借りればいいということもあると。
みんなが力を合わせれば、それでいい。
ただまあ、学校の名前が必要な世界も確かにあるから、よう考えなはれと。
ママや私があんたを助けられるのは後、数年だけ。
そのあとは、あんたが自分で作っていく世界が待ってる。
どんな世界に住むかは、あなたが選ぶんやで、よう考えやと。
「わかった!よく考えてみる!」と、私が彼女と同じ年だった頃より遥かによく勉強し、クラブにもまじめに通い、何かをさぼるという発想すらない優等生の標本は、明るく言っていた。
ちなみに、彼女の成績も、私より遥かにいい。ものすごい努力する。
普通に考えると、おそらくは、私より、高学歴になる。
けれど相変わらず、私には、劣等感がない。