言葉狩りに祝福を。

おいおい、私ら(の未来は)大丈夫なんか?と、最近、ちょっと思った。


(噂では合計で全人口の中のたったの1000人だけがやっているとかいう説もあるが)、言葉狩りがものすごい。


批判の内容自体は、ごもっとも!な内容ではある。

あ〜あ、やっちゃったなという内容や、それを読んだり聞いたりしたら、誰か傷つく人が間違いなくいるという内容でもある。



ただ、批判するのと、言葉狩りは違う。

私が大丈夫かおいと感じているのは、批判ではなく、言葉狩りの方だ。


いや、いいんです。

もしも、あえてweを使うけど、私たちの意識が総じて高く、立派な思想を持っているなら。


でも、違うやん。


意識が高く立派で差別意識はまるでない「私」も探せば一人くらいは見つかるかもしれないけれど、


私の中にも、

あなたの中にも、

1000人の中にも、


低い意識や差別意識はあるやんと思うので。


それを、これから、みんなでなんとかしていきましょう、できるだけいろんな人が不要に傷つく必要がない世界にしていきましょう、時間をかけてというところに、世界はようやく片足を突っ込みはじめた段階だ。


だから、それはあか〜ん!という発言は、誰しもやらかす可能性がある。

私もある。


いくらでもある。


書かないだけだ。



罪を犯したことのない人だけが、この女に石を投げなさい、だ。


批判は石ではないが、言葉狩りは石だ。



言葉は剣だ。


それを、剣でない使い方にしようと、言葉が変わりゆくスパンの最初のタイミングに、私たちはいる。


言葉は、魔法の力を持つ。


たくさんの魔法使いが生まれ始める時代の手前に、私たちはいる。



ダイナミックに言葉が変わる一歩手前にいる。

言葉が伝えるだけの道具でなくなる一歩手前にいる。


だから、今、やらかしたその時、意識的になるためには、萎縮するのは、あきらかに逆効果だ。

思考が歪むから。


というわけで、大丈夫か?言葉狩りが巻き起こることを許容して、と、私はやや不安を感じるのである。


まあ1000人くらいで全部やっているというデータを、どこかの大学が出していたけれど、この1000人は声が大きい。

まちがいなく雰囲気やムードを生み出している。



これは、たしかに、テレビ見んかったらいい、ネット見んかったらいいで、済む話ではある。

1000人はテレビかネットの中にしかいない。

そして、だいたいの場合、当事者ではない。


言葉を狩っているだけ。


私の現実には、こういう人はいない。

おそらく1000人も、街角で叫んだりはしないだろう。



ほんで、私にできることは何かと考えた時、私にできることは、そのどこかにいる1000人の幸せを祈ることと思った。


というわけで。


私は、言葉狩りに励む1000人のみなさんの幸せを心から祈る。

あなた方に祝福がありますように。