未来への不安
先日、ある友人と話していた時、友人が言った。
「あなたからは、未来の不安を聞かないね。」
私は楽観的だとよく言われ、また、そうだと思うけれど、未来の世界を楽観視しているわけでもない。
私の人生にこれまで存在した世界が、今後も同じようにあるとは思っていない。
老人が溢れかえり、コミュニケーションが苦手で大人になるのが遅い若者が溢れかえる国に住んだことが、私は過去にない。
戦争になるかもしれないと感じさせる、戦争の痛みを知らない政治家が、あちこちの国を統治する時代を生きたことがない。
活発に活動し、人にとっては天災としか言いようのないことがしょっちゅう起きる世界に住んだことがない。
ただ、自分個人については、不安を感じていない。
世界がどうであろうとも、そこにあるのは自分の人生だ。
そして、生きる世界は選べない。
与えられた世界を生きるしかない。
住む国くらいは選べても、しょせん、地球の中だ。
選べるものは、知れている。
私は未来に不安は感じないが、だいたい20年先に照準を合わせて自分の人生を考えている。
これは若い頃からだ。
私はショートスパンとロングスパンの2つで、人生を考える傾向がある。
ショートスパンの中で生まれる望みと、ロングスパンの中で生まれる望みを持ち、より強いのは、ロングスパンの望みだ。
そのロングスパンの望みは、いつでも、私に希望を持たせてきた。
ロングスパンの望みは、環境に左右されない望みだったからだ。
未来、は、望みに満ちていた。
25歳の時は50歳の自分を考えていたし、今は70歳の自分を考え始めている。
その先は、なるようにしかならないだろう。
それはいつでも、人間観察から始まる。
どのような50歳、今は、70歳が幸せそうなのかを観察するところから。
そして次に、その人たちに話を聞いたり、その人たちがどのように生きてきたかを知ろうとする。
人は、いきなり50歳になったり、70歳になったりしない。
私は、楽観的だからかもしれないが、自分をそこに置き換えて考える時、最初に自分の弱さを考える。
弱さは要素であり、強みとなんら変わらないが、弱さを抱えて、それでも幸せにやっていこうとするなら、少々工夫が必要だ。
25歳の私は、過去とそこに由来する自己否定、心の傷、破綻している家族関係、病気を抱えていた。
それから、破滅的な部分、衝動、感情のコントロール力の弱さ。
逃げるくせ。
ついでに無職。
私は、ロングスパンを考えて、それから、ショートスパンを最短に設定した。
1日だ。
それ以上の長さを考えることは苦痛だった。
人生は1日。
今日しかない。
今日のことだけ考えればいい。
今日、自分を幸せにすることだけを考えようと決めた。
基本はそこから、今も変わっていない。
1日だけを考えることは、人生を楽にするとこの20年で私は知ったからだ。
自分が何を抱えていても、1日の幸せは、それから自由でいられることを知った。
今日の自分のコンディション次第だ。
今は、ロングスパン、ショートスパンのほかに、ミドルスパンでも物を考える。
ミドルスパンで考えるのは、主に仕事や社会活動のことだ。
未来が今日と無関係でないことを、25歳の私が、45歳の私に教えた。
あの時、彼女が50歳の自分を考えなければ、今の私はいない。
また36才の私に、60才の自分のことを想像させた人がいなければ、今、私は結婚してない。
50歳の時に抱えるだろう願いを叶えるのは、50歳の自分だけではなく、そこまでの自分だ。
50歳にならなければ生まれない願いもあるだろうが、50歳の時に叶えていたい願いは、50歳に抱くのでは遅い。
私はいつも、3人の自分を幸せにしようと考えてきた。
今は人数が2人に減った。
今の自分、過去の自分、未来の自分。
過去の自分は、もうお幸せらしいので、考えるのはやめて忘れることにした。
楽しくやっているだろう。
過去の出来事は変わらずとも、記憶の中の過去はいくらでも変わる。
私は、今と未来の自分を考える。
そして、未来の自分が欲しがるだろうものには、できるだけ早く手をつける。
未来の自分は、あまり自分のことを考えたくないように私は感じている。
地球に、自分を生かしてくれた世界に、恩返しをしたいと感じている気がしている。
そして、そう感じることは、今の私に希望を持たす。
だから、不安は感じない。