自分の中の新しい視点
高齢者、障害者福祉を学びはじめたら、他の仕事の視点に変化が生まれだした。
高齢者と障害者は、いわゆるハンデを抱えていると一般に認知されている人々だが、その人たちができるだけ豊かに暮らしていけるように組みたてられた理論が、健常者にも当てはまると気がついた。
(ちなみに、足をつっこんだ福祉の世界はびっくりするくらい理論的だった。)
その人の持つ能力を使って工夫していくという考え方だ。
クリーンランゲージの考え方は、それに近い。
そして、気がついた。
一部を除き、自分がこれまで学んできたのは、強者の理屈に基づく理論で、だから、現実的にはそれが運用しにくい場合があること。
運用しにくい場合があるのは気がついていたが、理由がいまいちわからなかった。
この場合の強者は、富を持つものではない。
心理的、精神的な強者だ。
この強者は、この場合は、遺伝的にポジティブな性質を持つ人々をさす。
何をポジティブな性質というかは、いろいろだけれども。
それから、知能だ。
思考力は知能と無関係ではない。
これは、裏ではコソコソ言われていることだ。
理解する力は平等ではない。
人によって違う。
たとえば、心理的、精神的な何か、例えば、引き寄せでもいいけれど、それらを使う時、ポジティブな性質を持つ人々は、圧倒的に有利だ。
時間的にも有利だ。
落ち込まない。
落ち込んでも立ち直りが早いという点で、精神的ケアに必要とする時間が短いため、例の引き寄せであれば、引き寄せたいことに対して割ける時間(それについて思考する時間)が、落ち込みやすかったり、悩みを抱えやすい性質を持つ人より長い。
この場合、落ち込みやすい、悩みを抱えやすいは、ハンデだ。
思考する内容とそれに伴う時間に差が生じる。
そのハンデに対処しようとするのではなく、そこはそのままで、工夫をして、その人が持つ能力、他の要素を活用していくというやり方、視点の方が、より現実的だと思ったのだった。
その人の中のハンデとも思われる性質、そこはそのままで、その部分を支援して、その人が持つ能力をより活用するやり方。
能力を伸ばすのではなく、能力を下げない工夫と共に。
能力は、現実的には、ある年齢を過ぎれば普通に下がる。
誰でも下がる。
それは、精神的なことにおいても、当てはまる場合もある。
老人全員が、できた人でないことを見れば明らかだ。
忍耐力は下がり、判断力は下がり、直感力は下がり。怒りっぽくなったり、不安になりやすかったり。
そして、それは、人によるけれど、思っているよりも早い年齢から始まっているように感じる。
自分の限界を感じ、頭がカチンこちんの30歳は、普通に存在する。
しかし、これからの社会は、そういう人達が主役になっていく。
となると、活用しやすいのは、個人の能力を伸ばすやり方ではなく、互いに支援しあい、ある能力を使って工夫していくやり方なのではないか?と感じた。
誰もが、弱みを抱えている。
その弱みを抱えたまま、弱みが問題やハンデにならないやり方を工夫すること。
強者の理論ではなく、弱者の理論。
成長ではなく、向上。
資本主義の社会の考え方には反するかもしれないけれど、福祉の理論を組み込み応用じた精神的、心理的なアプローチは、健常者と呼ばれる人々の現実をも救うのではないか?と感じた。
完全なる強者は、たまにはいるだろうが、ほとんどいないと思うからだ。
自己の成長だけに頼る人生戦略が取れる人は、ほとんどおらず、支援があることを条件とする戦略の方が、現実的な気がする。