I thinkと、私が書くとき
幼い頃から、私のディスカッション相手は父でした。
父は、私を鍛えました。
「これからの時代、女の子も、自分の意見ははっきり言えなくちゃいけない。言ってごらん、君はどう思うの?」
「感情で物を言うんじゃない。頭で考えるんだ。君はどう思うの?」
「自分の頭で考えなさい。頭は使うためにある。」
父が妹とそういうやりとりをしているところは見たことがありません。
それぞれの個性に合わせていたのでしょう。
ちなみに、私の妹は、全く出世欲の類はない優しい人ですが、いわゆるキャリアです。彼女は幼い頃から人と競うことを一切しませんが、大企業の中で、気づけば出世していっています。
私と父は、もう、ディスカッションはできません。
たまに、私と父のおかしなディスカッションもどきは、今でも行われていて、みんなで大笑いすることはありますが、それはもう、論戦ではありません。
私が父に投げかけるのは、クリーンな質問です。
代わりに、私の世界には、別のディスカッションが登場しました。
それは、文章で行われます。
なぜなら、私は、まだ、口頭ではディスカッションができないからです。
理由は、言語が英語だからです。
けれど、その新しく登場したディスカッションは、私の心を癒します。
論客は、私の普段の日常には周囲にいないタイプのクレバーな人々です。
そして、父が、いかに、私を育ててくれたのか、感謝の気持ちでいっぱいになります。
なぜ、父には分かったのだろう?
日本社会の中だけで生きていくならば、おそらくは必要のなかった技術を、娘が、遠い未来で必要とするようになることが。
そして、それが、自分を失った後の娘の心を癒すだろうことが。
I think、と、私が書くとき、そこには、まだ若い父と5歳の私がいます。
初めて、「あのね、ゆかりはね、こう思うねん」と言った、あの日の私が、そこにいます。