アヒルと遊びとクリーンランゲージ

打てば響くようなやりとりがしばらく続いておりまして。

いつものように同時多発。

複数の場所で、別々の人たちと。


いつもと少し違うのは、そのやりとりの中に国境を超えたものが含まれはじめたことだ。

そして、その人たちと私は英語でコミュニケーションするが、全員が、英語が母国語ではないという共通項を持つ。

たまに英語が母国語の人も混じってはいるが少ない。


そんな中、私は気がついた。

やはり、人間は、どこでも人間なのである。


そして、また思い出し、自信がついた。

思い出したのは、なんどか言われたことがあることだ。

「あなたは、そこに人間がいれば、アマゾンでも生きていける」


あれ、不思議なんだけれども、「世界のどこでも」を表す比喩に、なぜだか「アマゾン」を使う人が多いこと。


このアマゾンは、どこから来たのだろう?

なんかテレビ番組かもしれないな。


まあ、ともかく、うん、私、多分、どこでも生きていける、そこが言葉が通じる地域ならばと思った。


私は、習慣ややり方の違いを面白く感じるということに気がついたからだ。


自分が日本の習慣ややり方に、いまいちついていけない感のまま、四十年以上、生きてこれた経験が、ここで生きるとは思わなかった。


習慣ややり方についていけなかった私が、どうして、やってこれたかといえば、そこには必ず、「これはあなた苦手でしょう」と見破る人が登場し、「ほら、やっといたよ」と代わりにやってくれる人が登場したからだ。


探さなくてもいつも、その人たちはいた。


そして、今、海を越えたコミュニケーションでも、同じことが起きている。

私の言語力の現在の限界値を知る人々が、それ以上の話は詰めてくれている。


私は何もしないわけではない。

私は「アイデア」を提供している。

これ、面白いんじゃない?という。



同時に、私は、私のこのやり方がいつ生まれたかにも気がついた。


私は、このやり方をすでに3歳のころにははじめていた。

本格的にはじめたのは、幼稚園のころだ。


3歳。

おむつが外れた私は、ひとりで外に行き、遊びはじめた。

近所には、子供集団があり、小学六年生から幼児までが、ひと塊で遊んでいた。


今は家が並ぶそのあたりは、私が小さなころは、畑が広がっていた。

公園は、家から1分のところにあった。

そして、だいたい、どこかの近所のおばちゃんがうろうろしていたから、まあ、安全だったのだろう。


その集団のメンバーは固定的ではなかった。

主に私は、その頃、両隣に住んでいた少し年上のお姉さんについて回っていた。

彼女たちには妹がいなかったので、彼女たちは私を妹みたいに可愛がってくれた。



やがて、幼稚園。

私は、「新しい遊び」の開発に勤しみはじめた。


小学校に入ると、放課後は、校舎全部を使って、友達たちと新しい遊びを作っては遊んでいた。

メンバーは固定ではなかった。

私は、いくつかのグループに、その日の気分で参加していた。


固定的にベタベタと人とつるむのが、私は苦手だった。

その日遊びたい人と遊びたかった。


私はできないこともたくさんある子供で、特に忘れ物がひどかったが、困ることはなかった。

近所の幼馴染ネットワークがあったので、他のクラスや学年に貸してくれる子供がいたか、同じクラスの中に「Yちゃんは忘れてくると思った」と予備をあらかじめ持ってきてくれる子がいたからだ。


これは、メキシコにいた時もそうだった。

同じマンションの子供ネットワークが存在していた。年齢はばらばらだ。


(これは、今、考えると、最初にひとりでアメリカに行く時に、ある友達が、「絶対に忘れていくだろう」と、小さなタオルハンカチを何枚かプレゼントしてくれたのも同じだろう。私の人生には、よくできた友達、が、なぜだか必ず配置されているのだ)



ともかく、このやり慣れたやり方を、今も私は使っていると、私は気がついた。


アイデアを思いついたら、それを一緒に楽しめそうな人にシェアする。

そして、互いに助けあいながら、遊ぶ。



私には、仕事と遊びの境目がない。

仕事のやり方は、遊びと同じだ。

真剣。



そして、ここで再び、頭が、「お腹の中のもはや温泉のような温水プールに浮かぶ黄色いアヒル」に焦点を当てた。



そして、私は理解した。

今、書いたこれは、意味がわからなかった「アヒル」の意味を理解するためのストーリーだと。


ちなみに、ひとつのメタファーは、最高数百の意味を内包することがあると言われている。


そして、メタファーの意味は、記憶と経験から作られている。



私は「アヒル」の特徴のひとつに気がついた。

遊び、だ。


そして、「その遊びはどんな遊びなのか?」への答えが、今、書いた話だ。



「遊び」が、お腹の真ん中で泳いでいる。


そして、私のクレバーでハイパーでメタリックなおでこが機能するのは、遊びがそこにある時。


なるほどねえ。


まあ、クリーンランゲージを、私の体が遊びと理解しているのはわかる。

大好きだった空想遊びとやってることが変わらないから。


でも、遊びだから大好きなんだね、そして、人と一緒に遊べるからねということを、はっきり理解した今。


「そして、これらをはっきり理解した今、理解する前と今とで(between now and before)何か違いは生まれる?」


そして。


「はっきり理解すると、次に何が起きる?」



違いは、理解しておくと、どうやればうまくいくか、再現できる確率があがる。

軽やかに、楽しく、他者と協力しあいながらがマストだ。

遊ぶ時にそうしているように、仲間に気を配ること。

仲間外れが生まれないように、たくさんの人が楽しめるように、能力差を補う工夫をすること。

アイデアを独占せず、排他的なやり方をしないことが重要。

遊びは、遊びたい全員のものだということを忘れないこと。

肩の力を抜いていないと、遊びはちっとも楽しくない。

そういう大事なことをはっきり認識できる。



次に起きることは、メタリックなおでこが、新しいプログラムをダウンロードする。

それは多分英語で書かれているだろう。


そして、既存アプリも、アップデートされる。


そして、私は、準備ができたら、シェアしはじめる。

私が大好きな遊びを。


一緒に遊ぼう、笑おう、喜ぼう、おしゃべりしよう、秘密を探検しようと。


つまり、私がやりたいのは、毎度、それだ。