話す言葉

言葉は人が理解しあうためのもの。

けれど、言葉が理由で、時に人は争う。


けれど、言葉は、そもそも、そうではなかったはず。


人類の一大発明である、言葉を私は最終的には人が理解しあうためのものとして捉えているようだなと思いました。


そして、クリーンランゲージが、自分が知るものの中では、そこに一番近いと考えているみたいと気づきました。



これには実体験もからみます。

ここ数年、私と実家の家族が、もめなくなりました。

私の家族は、サポートが必要な状態です。

かつて何をしても上手くいかなかった私のサポートは、私がクリーンなスタンスを家族との間に保てるようになった後、激変しました。


私は、家族から感謝されるようになりました。


今だけに、今その人が発した言葉だけに、私が集中できるようになった後。


私が、過去からの流れと今を結びつけず、今、目の前でその人が抱く望みを知ることに集中できるようになった後。


私が、自分には、その人を理解できないことを受容した後。



以前は、私のするサポートが、新たな火種を生むこともありましたが、今、それは無くなりました。

私がするサポートは、平和を生み出すようになりました。



そして不思議なことに、家族の姿がよく見えるようになりました。

私は自分が家族を理解できていないことを知っています。

けれど、理解し合えた(と人が思った)ときに手に入るものを、私は手に入れました。


それは、あたたかなものでした。



自分が得るものを捨てたことで、自分が欲しいものを得るとは、この世は不思議なものです。


そして、人の全ての言葉が、「相手が理解してもらいたいと思っていること」として、つまり、その人が実現したい願いを表すものとして、私の耳には聞こえはじめました。


たとえ愚痴でも。

たとえ悪口でも。


「言葉は現実を変える」と、たまに耳にします。

私はこれは本当だなと、思うようになりました。


よく耳をこらすと、人生でさまざまなことがうまくいっている人たちは、現実になると嬉しい話、楽しい話、面白い話、その人が好きなことの話を頻繁にしています。


おそらくは、そのことそのものが、人生の協力者を増やし続けているのだろうと思います。


内側で何を考えているかは、誰にも理解できません。

言葉そのものの力だろうと思います。



これを確信したのは、この数年の自分の経験です。


日本と全く異なる異文化の中で、私の考えを底から理解できた人がたくさんいるとは、思いません。

けれど、私の願いに協力してくれる人たちは現れ続けました。

今もです。


この人たちはみな、クリーンランゲージが使えました。

願いに集中することに慣れていました。


また英語は願いが表現としてわかりやすい。

そんな関係だろうと思います。