クリーンランゲージのさまざまな前提

最近、私が気づいた、クリーンランゲージを使うセッションがクライアントには簡単で、ファシリテーターには時に難しい理由の一つはこれだな...ということがあります。


使用言語は関係なく、ファシリテーターにとって、時に難しい理由はこれだなと。


その話の前に、前提となる前置きを少し。


前提として、クリーンランゲージは、もう徹底的に、クライアントのことしか考えずに作られている技法だというのがあります。

(その結果、副産物として、ファシリテーターの心や世界観、安全をこれほど守ってくれる技法もないなと感じています。おそらくは多くの対人支援者が苦慮することから、クリーンランゲージは支援者を守ってくれます)


次の前提は、私の経験的には、クリーンランゲージを使うとき、人をサポートすることで、同時に、自分も何かを得ることはできません。

(同時でなければファシリテーターにも得るものはあります)


私自身はそこが好きですが、これは、「人をサポートしたい」というファシリテーター側の願いの中に含まれる「人をサポートすることで起きて欲しいこと」の中身によっては、満たされない思いを抱えるファシリテーターは登場するのではないかと思います。


さらなる前提は、また、ファシリテーターが「わからないという事実」から生まれる自分自身の中で起きることと仲良くできない場合、クリーンランゲージは難しさを増します。

わからないことが好奇心に繋がれば、クリーンランゲージは楽しいし、わからないことが不安や混乱をうめば、クリーンランゲージの使用は、ファシリテーターにとって苦行です。


明らかに、クリーンランゲージの使用では、未知なるものへの好奇心や遊び心といったリソースを、ファシリテーター側は必要とします。


このあたりは、ファシリテーター自身の価値観も絡んでくると思います。


他の前提としては、その人の人間に対する信頼度は試されるかと思います。

技法の絶対的な前提は、「人は誰でもその人の中に、その人を癒す力を持っている」です。

シンボリック・モデリングについては、ここに、「すでに人は完璧な存在だ」が加わります。

どんなに問題だらけに見えても、すでに、その人は、システムとしては完璧に機能している。

そう考えます。

そもそも、誰のことも、問題だとは見ていません。


これをファシリテーター側が受容できるかどうかは、あります。


これらの詳しくは、クリーンランゲージの基本方針、シンボリック・モデリングの基本方針に書いてあります。

どちらもA4で2ページくらいに渡ります。



さて。話を、最近、私が気づいたのは技術の部分。考え方や価値観とは別のもの。


言葉についてです。


話が始まるその瞬間、ファシリテーターに、クライアントの話の文脈がわからないことが難しさのひとつだと気づきました。


ファシリテーターは、クライアントが提示する情報のかけらをひとつずつ組み立てていくしかありません。


そこに、組み立てをガイドしてくれる完成図はありません。

ほとんどの場合、クライアントの頭や心の中にも、まだ、完成図はありません。

話の最後まで完成図は登場しないこともあります。

この完成図が文脈です。



クライアントもファシリテーターもバラバラの積み木から何を作るかわからない状態で、話をスタートする必要があります。

しかも、必要なパーツが揃っているかどうかすらわからない。


クライアントの言葉や表情、声、振る舞いといった、クライアントが表に表現しているものだけを頼りに、探求を続けます。


時には、作っては壊し、作っては壊しの繰り返しになることもあります。

時には、ただ、積み木の山の前で何もしようとしないクライアントが、自分の手に積み木を取るのをただひたすら待つだけのこともあります。


ファシリテーター側には、情報処理能力が必要です。


この情報処理能力は、日常に必要な、入ってきた情報を自分が理解し使えるように処理する能力ではありません。


これは、あるものをあるがままに観察して、そこに存在する論理を推察して組み立てる能力です。

あるものから感じることに重きをおくのではなく、事実を事実として、ただ観て、推論する能力です。


こちらは、人によっては、訓練されていない能力である場合も多いです。



クリーンランゲージで繰り広げられる話は、ときに非常にファンタジックです。

しかし、ファシリテーターがしている作業は、ある部分、非常に実験の観察のようなドライな作業です。


日本的な表現だと、表面で動くものは文学、裏側で動くものは哲学か科学の実験。

ファシリテーターは両方を同時にやる必要があります。

裏で動いているのはほぼ理屈一本です。

それから知識に裏付けられた直感。


言葉から組み立てていく思考に、文系と理系の両方の要素が必要です。



人によっては、普段、言葉を聞く時、人とコミュニケーションするときに、自分が全く使ったことがない回路で物を考える必要が登場します。

そこが難しいことがあるのかなと観察して感じています。


そしてその時、「自分が新しいことに取り組んでいる」と学習者が理解できなかったとき、自分の能力を卑下したり、自己否定したりという学習者自身の持つパターンが入りこんで、さらに難しくなることがあるのかもしれないなと。



さて、これに気づいたとき、私にできることは何なのだろう?


麻薬を使おう、と、私は思いました。

私が使える麻薬。


笑い。笑


難しいものは、顔をしかめると、ますます難しくなる。

デイビッド・グローブが、講演会やワークショップで笑いを取り巻くっていたように、私も笑いを取りまくろう。


ゲームのように覚えられる方法をたくさん考えてみよう。

たたきはすでにたくさんある。

そこに、笑いやユーモアという麻薬を少ししのばせるだけ。


ファシリテーターがリラックスしていることは、クライアントにとって、本当に必要なことだから。


それもまた、私が経験的に知る前提です。

ファシリテーターが最初の一言を発するその瞬間、ファシリテーターがリラックスしているかどうかは、セッションのクオリティを左右します。