習慣化と英語学習
習慣化と英語学習のはなし。
私は、語学学習アプリを2つ使っている。DuolingoとMemrise。
毎日1時間くらい、それらを使う。
時間は細切れで、一度には長くて10分くらい。
休憩でゲームをして遊んでいた時間を、ほとんど全て、どちらかのアプリに変更したからだ。
これは、「習慣」について書いてあった本を参考にした。
いわく、人間が何か新しい習慣を身につけたいときに、一番うまくいくのは、7割は元のままで、3割だけ新しいことを取り入れた時なのらしい。
全てが新しい習慣を身につけようとすると、なんらか心理的抵抗が働くらしい。
わかる気はする。
人間は、慣れた状態に安心する生き物だから。
それで、私は、「休憩中はスマホでゲームする」という長きに渡る習慣を残した。
私のこの習慣は、もう、10年以上、まだ会社員でガラケーだった頃から続いている。
移動の新幹線の中では、ずう〜っとゲームをしていた。
私は、なんにしても、1人で仕事することが多いので、人と話して休憩する頻度は少ない。
休憩中、スマホで遊ぶ、というこの習慣と、ゲームが大好きという自分の好みをくっつけた。
そうしたら、苦なくただいま60日。
新しい習慣が誕生した。
褒めあうゲーム仲間もそこにいる。
頑張らないことがポイントだなと思った。
私は、そないに気合いをいれて生きていないから、「気合いを入れた瞬間に、それはもう違和感しか産まなくなる」というようなことにも気がついた。
「命が自然に終わるその日まで、ただ生きること」が、30才以降の私の最大の人生の目的で、これは未だに変わらない。
生きているだけで、毎日、100点満点の人生だ。
一度、人生の底を見て這い上がった人だけが味わえる人生と自分への揺るぎなき肯定感よ。(底を見るようなことになったのは自分が悪いから、自慢にはならない。笑)
さて、もう一つ、私が作った新しい習慣は、「毎日、英語を使う必要性を作る」ことだった。
私は、自分が英語を理解しなければ、誰かが困る状況、または、自分が困る状況を作った。
ちょっとだけ、自分を追い込んだ。
追い込まれなければ、私はやらない。
私は、夏休みの宿題、レポート、テスト勉強、提出物は、全てギリギリまでやらなかったタイプだ。
いい悪いは、この際どうでもいい。
「ギリギリに追い込まれたらやる」という特徴を利用したかった。
この状況は、作ったというか、正確には、流れで自然に生まれた。
宿題その他と違うのは、自分が好きな内容ということだ。
そして、こちらは、「私はミスをする」という前提を最初に組み込み、ミスしたときに、それが問題にならないようにした。
人が自分を疑う状況を作った。
でないと、しんどい。
私は、しんどいことは続けられない。
期待されるのは向いていない。
人に期待されると、めんどくせえな、もう、と感じるタイプ。
だから、期待に応えるための苦労はしないと決めている。
苦労の先の一瞬の感動より、日々の安らぎや楽しさや喜びが、私には価値がある。
一瞬は、単なる結果にすぎず、苦労しようがしまいが、やることをやってりゃ、それは訪れる。
苦労しても、的外れであれば、結果はでない。
努力は、報われたらラッキーで、報われないことの方がうんと多い。
努力すれば報われるは、嘘だ。たまにはほんと。
年の功で、それは知っている。
だから、プロセスは、面白く楽しいに越したことはないというのが、私の好みだ。
そもそも、快楽主義者につき。
ただいまのところ、私の英語か日本語が怪しいときは、誰かが「ほんまに?」と質問してくれる状況だ。
または、私が間違えたときに「あなたが今言った(書いた)〜のように」と、相手がさらっと、〜と言い直し(書き直し)てくれる状況。
私は、そこで、自分の言いたいことの文章や訳を覚える。
わはははと笑いつつ。
そして、私が、英語学習で手に入れたい残りの一つは、友情を育むこと、だった。
「あなたは、英語を話す機会さえ増やせば、なんとかなる」と、真夜中英語コーチングでも言われた。
けれど、環境的に、これが一番ハードルが高いと思われた。
私の周りにネイティブな英語話者はいない。
しかしなんというか、求めよさらば与えられんで、共通の話題がある利害関係がない仲間が、この数ヶ月で、私にはできていたことに気がついた。
話題は、語学学習そのものについてだ。
DuolingoとMemriseを教えてくれた人たちだ。
学ぶ外国語はバラバラだ。
年齢もバラバラだ。
だが、課題やテーマは共通だ。
記憶力。
そして、何かを探究するのが好きなことも共通している。
というわけで、ピースが揃い、新しい習慣が始まった。
三年経てば、新しい日常だ。
待ち遠しいこと。