人の話はよく聞く
「人の話はよく聞きなさい」とは、幼い私が、いろんな大人からしょっちゅう注意されていたことだ。
この「よく」はどういう意味なのかは、未だにわからない。
しかし、最近、不思議だなあと感じていることがある。
話を聞いたり、文章を読んだりする回数についてだ。
そして、先日、また、不思議だなあと思った。
私は、その時、英語コーチングのフォローアップに参加していた。
そして先生から質問されていた。
は?と、私は言った。
質問内容が難しくないのだけはわかったが、先生が何を言っているかがわからなかったからだ。
夜中で眠かったのもあって、私の理解力は半端なく低かった。
「すみません、もう一回」と、私は3回言った。
3回目、ああ!とわかった。
私はただ、Yesと答えればいいだけだった。
何かを勉強していてわからない時、最近の私は食い下がる。
これには、とある友人や勉強仲間が影響している。
その友人や仲間の、とことん、わからないを追求する姿勢を私はただいまモデリング中である。
効果的な学習に必要なことを、今更だが、私は習得しようとしている。
なぜならば、私が学ぶことが仕事だった十数年、私には、そこをモデリングできる友人が側にはいなかったからだ。
つまり、私は、日々を楽しく過ごすことに熱心だった。
それから、学校の勉強は、テストの点だけの話だと理解していた。
自分が興味あるなしに関わらず、覚えなくてはいけない、点数をとらなければいけないことは、私には、ゲームくらいにしか思えなかった。
そして私の親はテストの点では、私をなんら評価しなかった。
彼らのスタンスは常に、「勉強は自分のためにするもので、お父さんとお母さんに、あなたの成績はなんら関係ありません。行きたいならば、大学まではお金を出してあげる。成績が悪くて困るのは、お父さんとお母さんじゃない」だったからだ。
点がよかろうが悪かろうが、そんなことより、彼らは、通知表の通信欄を見ていた。
私の生活態度に対するさまざま。
(小学校では、給食を残す話、中学校では遅刻をする話、高校では、学校を休みがちか、毎日楽しそうだが勉強しない話)
そんなわけで、私には、モデリング対象もいなければ、また自分自身も、勉強に興味を持たなかった。
ひとりだけ、見破った先生がいた。
高一の頃の担任が、私の母に「お母さん、お宅のお嬢さんはあほではない。どうやらテストの点数が自分で調整できるようです。
試しに、このままではまずい、次のテストで全教科10点ずつ、点数をあげなさいと指導したら、お宅のお嬢さんは、ジャスト10点あげてきました。
ああいう子は、自分がやりたいことがでてきたら、勉強します。
心配いりません」と言った。
母は、その話を笑いながらたまにする。
当時の私がやりたいことは、音楽であって、勉強ではなかった。
先生も、よもや、そのやりたいことが、30年後に登場するとは、思いもしなかっただろう。
そして、私が選んだのは、ウエスタンスタイルの、自分で考える学習をさせる世界だった。
質問して、「黙りなさい」という先生はいない世界。
「今は質問の時間じゃない」とかいう先生もいない世界。
静かに座っておくことが、一番重要ではない授業。
管理しやすい人になることが、是とされない世界。
みんなと同じでなくていい世界。
結果、私は、今更、学習習慣や学習態度をモデリングする必要がでてきたのだ。
人生のやることの順番が、かなりおかしい。
まあ、いいけど。
そして、話を戻して、質問された時、文章の中に知らない単語が混じっていた。
それなのに、なぜ、自分は、3回目にはわかったのか?と、私は謎に思った。
辞書は引いていない。
モニター越しに、先生の顔をガン見していただけだ。
なぜ、わかったのか?
「人の話をよく聞きなさい」の「よく」は、この場合、回数もあるのかしら?と、私は思った。
同じことを、回数多く聞いたり読んだりすると、自分の理解が変わるということ?
その時、何が起きているのだろう?
不思議だな。