白夜の記憶
祖父が認知症になり、現れた女の子(の幻覚)と旅行に行ってしまい行方不明になった後のこと。
福井県の外れの駅で見つかった祖父は、「女の子を途中で見失って、探していたらどこにいるかわからなくなった」と言った。
母が、そっと「お義父さん、旅行は楽しかったですか?」と尋ねたら、祖父は、「すごく楽しかった」とニヤリと笑った。
母は、「あれは、また行くわよ」と言った。
祖父の住む世界では、祖父のそばには、いつでも、小さな女の子がいて、祖父はその女の子とたいそう仲が良さそうだった。
とはいうものの、祖父が勝手に家を出て行かないように、私は祖母に雇われた。
当時、夜に弾き語りの仕事をしていて昼間は暇だった私が、祖母が買い物に行く間、祖父を見張っているというアルバイトだった。
ある冬の日、祖父と私はこたつに入ってテレビを見ていた。
私は、楽譜を書いていた。
祖父は新聞を「読んでいた」。
祖父の目は白内障でほとんど視力がなかった。
文字は当然読めない。
けれど、祖父はよく新聞を「読んでいた」。
「ほう」と祖父は驚いた表情で言った。
私が「どないしたん?」と尋ねると、祖父は言った。
「佐渡で金山が見つかったらしいで」
祖父が読んでいたのは、何時代の新聞だったのだろう?
瓦版か?
ともかく祖父の住む世界は、その最後まで、非常に楽しそうだった。
ちなみに、私はその後のある日、祖父が「この子も眠そうやわ」と見えない女の子に見えない毛布をかけ、それから私を見て、「あんたも少しお昼寝しとき。おじいちゃんが見張っておくから」と言ったので、「ああ、そう、じゃあ、お願いね」と昼寝しているところに祖母が帰ってきて、激怒され、アルバイトをクビになった。
「だって、おじいちゃんが見張っておくっていうから」と私は言った。
祖母は、母に電話をかけてきて「Yは役にたたん。どこに、認知症の人に、昼寝している自分を見張っておいてもらうやつがいる」と苦情を入れていた。
母は、大笑いしていた。
先日、父が言った。
「白夜は綺麗だったなあ」
そこにいた家族は全員黙ったが、私は思わず笑ってしまった。
そして、尋ねた。
「お父さん、白夜を見たことがあるの?」
父は言った。
「綺麗やったで」
私は知っている。
父は、私が小さい時にスペインに数年間ほど住んでいて、ヨーロッパの下の方はだいたい回ったが、北欧に行けなかったのが残念だったこと。
しかし、父は言った。
「白夜は綺麗だった」
私はワクワクし始めた。
父は親の子である!
その昔、父が癌になった。
そして、脳に癌が転移して、幻覚が現れたことがある。
(余命宣告もされたけれど、なぜかは知らないけれど治った)
父は、会社に電話して言った。
「なぜ、自分がロシアにいるかはわからないが、妻がロシアのスパイにさらわれた!」
(実話。)
007の世界に住んでいたのか。
そして今、父は、白夜を見た記憶を楽しそうに語る。
住んだことがない場所に住んだことがあると、楽しそうに語る。
それは紛れもなく、「今、ここにある記憶」で、嘘ではない。
そういう時はどうするの?
相手の世界には介入しない。
それを尊重して、一緒に探究を楽しめばいい。
それは、紛れもなく、その人にとっての真実だ。
真実とは、事実のことをさすのではない。
クリーンランゲージのスタンスが、思いがけないところで非常に役に立っているのを私は感じている。
私の話をたくさん聞いてくれた父の話し相手に、私は自己犠牲なくなれる。
私は私の世界に住んだまま。
父は父の世界を探究する。
私の頭は認知症ではないので、ちっとも理解も共感もできない世界だが、父の住む世界を快適にする手伝いは、私にもできる。
私は、祖父とのトンチンカンな会話を思い出し、少しワクワクし始めた。