ビジョンと空想、イメージ、セルフモデル

時折、考える。

私の人生は、ビジョンというかイメージを元に進んでいる。
小さい頃からずっとそうだ。

やりたいことは、ほとんどの場合、最初にイメージでやってくる。
映像だ。

頭の中に浮かぶそれらを見て、やりたいなと後から思う。
やりたいという意思よりイメージが先だ。

そして、先にイメージで浮かんだやりたいことは、たいていの場合、体験できる。
そのクオリティはともかく、体験はできる。

時に、イメージだけが存在し、自分はそのイメージを好きだが、自分の人生とそのイメージに関係があると考えない場合もある。
 
それらは、空想みたいなものだ。

それでも、本当に不思議な感じだが、それでも、それらを現実に体験することがある。
そして後から、ああ、このことかと思う。

その発言から推測するに、おそらくは、父が同じようなやり方で人生を進めている。
ビジョンやイメージを人生に使うというやり方だ。

だから、私は、小さい頃からそのやり方に不思議は覚えず当たり前のこととして、それを使った。
誰でもそうしていると思っていた。

やりたいことは、やりたいという意思とは別に存在し、探さなくてもどこかから勝手にやってくると思っていた。


大人になると、少し状況は変化した。

私にやりたいことが無い日はなかったが、イメージやビジョンを自ら作ることが登場した。

やりたいという意思が先にあり、そのビジョンを後から作るというやり方だ。


さらに時間は過ぎて、私は、数年前に、ビジョン先行のやり方に戻した。
自分が思うより早いタイミングで、戻していたようだと感じた。

ものがたりを書く、というやり方で。

私が長い時間をかけて書いたおとぎ話のようなものがたりがある。
クリーンランゲージに出会う前の話だ。
書き終わりから5年くらい経った。

浮かぶままに書いたそのものがたりに登場した体験は、私の人生にちょこちょこ登場するようになった。

それと同時に、私は、クリーンランゲージを使って、メタファーでビジョンを作るやり方を人生に導入した。
これは、私には、非常にうまく機能した。
ものがたりを作るやり方は、なじみがあった。


小さい頃から使っているやり方をグレードアップしたような感じがした。
他人の手を借りることで。

他人の手を借りる時、そこには、自分以外の視点が登場する。


そのあたりから、私は、ビジョンを1人だけで作らなくなってきた。
個人的なことは、私はあまりこだわりがなく、自分個人の人生に求めるものは、もともと少ない。
一日中、家でぼ〜っとしていて幸せなタイプだ。

過去に人生上に存在した個人的な問題は心理的にも現実的にも解決し、子供時代の私が見たら、奇跡だというに違いない状況に私はいる。
だから、一日、一日を楽しんで喜んで生きられればそれでいい。
その日、浮かんだように生きればいい。


だから、今、私がビジョンやイメージをあえて作るとしたら、それは100%仕事の話だ。
以前は、ひとりでビジョンを作って、それからそれを分かち合うという方法をとっていた。
それをいつからか、やめた。


クリーンランゲージで、ビジョンを作るのは他人に手伝ってもらえる、ビジョンの途中でも、そこに他者を加えられる、そして、その方がいいものができると体が覚えたからではなかろうか、とふと思った。

その中で、自己の体系(セルフモデル)にあうビジョンを作る。


そして、ビジョンやイメージ、セルフモデルの使い方のバリエーションは、おそろしく沢山あるのではなかろうか?と、またふと思った。


個人の人生に関わるそれらは、入り口に過ぎないのでは?と。


秋の夜長、少し考えてみよう。