思い出ばなし

私と妹は、仲は普通で、ごくたまにしか会話しないが、そういう時、姪っ子が中学生な関係で、妹と話すと、自分たちの中学時代の話になることが多い。

中学二年生の時、こじれている先生が2人いた。男女、ひとりずつ。
うち1人は、初めて担任を持った若い女性の先生で、私のクラスの担任だった。

初めて担任を持つ教師に、「中二」を担当させる人事センスのなさを、今となっては感じる。
私が所属した学年は、大人しい学年だったが、それでも可愛らしい先生の話を男子はなめくさって全く聞かず、先生はやがて学校に来なくなった。

そして、終わりの会に、学年主任や副主任の先生がやってきて、私たちは反省させられた。
早く帰りたいな、と、帰宅部の私は思いながら参加していた。
一方的に、私たちが悪いということになっていたから、反省した生徒が何人いたかは謎である。

もうひとりのこじれた男性教師も登校拒否していた。
私の学年には、学校に完全に来ない生徒はいなかったが、学校に来ない教師は2人いた。


やがて、担任の先生はやってきて、最初の終わりの会で言った。
衝撃だったので、今でも言葉を覚えている。

「先生も、この2週間、成長するために、山寺にこもって考えてきました。」と担任の先生は言った。

だめだ、こりゃ、と私は思った。
あなたが、現実から生徒をほったらかして逃げてる間、私たちは、毎日毎日、あなたのことを考えさせられた。
学校は教師が成長するための場所じゃない。
私たちのための場所だ。
冷めた目線の中二女子は、批判的な評価を下した。

男子がわ〜っと再び騒ぎだし、そしてそれは、三学期の終業式まで変わらなかった。
私は、男子の幼稚さにも呆れていた。
黙って聞いてりゃ、早く帰れるのに。

中二だ。


妹は、最近の先生は、よく勉強してる。
私たちの頃より先生は優秀な気がする、難しい環境の子が増えている中、よくやってると言う。


そして、最近、私はふと思った。
私は、精神的なことを追求している間も、自分の現実的な人間関係から離れないようにしている。

その理由は、非日常だけでしか再現できないものに、私が興味を持たないからだと思ってきた。
私には、いつでも、戻る場所は、もといた場所だ。
精神的なつながりだけの誰もが優しくなれる非日常の関係の中で、人と関わるのは非常に簡単だが、私は、現実の中で、ストレスを抱えながら、わちゃわちゃする体験も嫌いではない。
その中で、自分のコンディションを保つことに興味を覚える。

しかし、私が、つながりを切らないことを選ぶのは、もしかしたら、あの中ニの担任の先生のあの一言、あれも関係しているかもしれないと思ったのだ。

先生のおかげで、自分の成長のために、精神性だけを追求して現実から逃げると小馬鹿にされる、という人間社会の非情な現実を自分の目で見たこと、また、若い自分がそれをかっこよくないと思ったこと。


事実としては、逃げた方がいい場合もある。
一目散に逃げた方がいい現実もある。
私自身も、逃げる、という選択肢を選ぶこともある。

ただ、うまくいかない現実が、自分の成長によって解決される場合に限っては、逃げない方がいい。

それを、あの先生は、見せてくれたような気がした。
先生は自分は成長して帰ってきたのかもしれないが、共に成長できたはずの生徒たちから逃げ、結果、現実は改善しなかった。
共に成長すること、を選んでいたら、結果は違ったかも、、、しれない?
わからないけれど。


できた先生だけが、いい先生じゃないってことだな、と、私は思った。