思いやり

多分、私はめちゃくちゃ疲れていたのだ。
ここしばらくじゃない。
ここ44年くらいの疲れが溜まり込んでいたのだ。

何に疲れていたのか・・・

人の感情だ。

私がクリーンランゲージに惹かれた一つの理由は、それが、もちろん感情は扱うのだけれども、メタファーの状態で扱われ、「感じろ」とこちらには要求しなかったこともあるかもしれないな・・・とふと思った。
共感しやすい状態にまず感情を変えて、それから共感するという手法が展開されているから。
共感するのは感情そのものでなく、メタファーだ。
受け入れやすい状態に変えてから、共に味わい、共に観察し、味わう。

人を思いやれない、人の感情がわからないと両親は私によく言った。
君のすることは、まるで人には感情がないようなことになっている、とよく言われた。
私のいた環境では、感情こそが最重要な項目だった。

私はそれを上手に扱えなかった。
母の感情に気を配らなければいけない環境に疲れていた。
大人になって、社会に出てからも、感情に気を配ることに疲れた。
必要以上に私はそれを気にした。
傷ついた人がどうなるか、見続けていたからだと思う。
気がついてなかったが、トラウマだ。

親は幸せでいるだけで、子供には十分だと私が考える理由になったのは、きっとそのトラウマ。
親は幸せで「なければいけない」と私を縛り、私が子供を持つことができなかった理由となったのもそれだろう。
もう、すんだ話だけれど。そこにわだかまりはない。
両親はよく頑張った。
全ては私の選択だ。


大人になってから、何度かした共感力のテストで、私のスコアはいつでも最高得点に近かった。
私は驚いた。

けれど、「思いやり」という言葉は吐き気がした。
それらを押し付けられると、もう、勘弁してくれという気分によくなった。
これ以上?どうやって?とよく思った。

他者の感情に気を配ることはもちろん大事なのだが、どこまでやれば良いのだろう?と思い続けた。
ものの感じ方はそれぞれだ。


私は疲れ果てていた。
疲れ果てていた、ということに気がついた。
当たり前の状態だったから、疲れていると気づけなかった。
つまり、ずっと疲れているのが普通の状態だったということだ。


最近、そんな話はどうでもいいと言われて、それに気がついた。

君がどう思うか、君の感情はどうでもいい。
そんなことには興味がない。
大事なことは他のことだ。

はっきり言って、私は叱られたのであるが、心の底からホッとした。
もう、考えなくていいのだと。
英語で書かれたその文章は、私の心を溶かした。

そして、私は気がついた。
本当に疲れていたのだと。
泣いた。

でも、もう、人がどう思うか、自分がどう感じるか、そんなことはどうでもいい。
感情を脇によけていいのだと。

ただいいものを、ただ自分のリソースを使って人の役に立つことを、自分がやりたいことをすることを、誰にも気を使わずにそうすることを、ただそれを喜びと感じていいのだと。


そして、私に扉を開いてくれたその感情を脇によけていい世界は、私の背筋をしゃんと伸ばした気がした。
人を「思う」のではなく、人を思い「やる」世界がそこにあった。

ただ「やる」こと。