わたしのものがたり、の有り様

わたしのものがたり。

私の人生を、自分が語る時、私はそれをものがたりとして語ります。
おそらくは、誰しもそうであるように。

ものがたり、という言葉ではないかもしれないけれど。

そこには、私自身の真実しかありません。
視点は常に自分自身。


ところが時に、そこに、他人の目線が混じり込むことがあり、その時、わたしのものがたりは、私の人生の話の本筋からずれてしまいます。

わたしのものがたりを見て、他人がどう思うかは、私の人生の本筋とは本来関係がないのですが、それを大事なことのよう私自身がものがたりの中で扱う時、わたしのものがたりは色鮮やかさを失います。

そこは、わたしの世界であって、誰かが色付けする世界ではないので、色鮮やかさを失わせるのもまた自分なのですが。


何を見て、何を聞き、何を感じるか、そこから何を生み出すかもまた、自分自身が選んでいます。
これは誰でもそうです。


今年に入ってから、もともと気がついてはいたけれど、実感としては弱かったことを、私はわたしのものがたりの中で、深く味わいました。

今までも何どか言われたことがありました。
たまに驚かれるのです。
こんな感じで。

なぜに、あなたの周りにはいい人が集まるのか?
あなたはむちゃくちゃに見えるのに、あなたの周りの人達があなたを守ろうとするのはなぜだ?
なぜに、あなたはそれが許されているのだ?

もろもろ。


見た人から、なぜ?と思うようなことが、たまにあるようなのでした。

私は私の人生しか知りませんので、みんな気づいてないだけで、誰でもそういうもんではないのか?と思っていたこともありました。


今年に入ってから、また人からも言われ出したのですが、私自身も、これはある意味不思議だ、と、ようやく自分で「感じました。」
いろんな出来事を通して。

実に多くの人々が、いくつかの出来事を通して、自分のために、なんの見返りも求めず、私の願いを叶えようと、手を差し伸べ、知恵を貸してくれ、私を守ろうとしてくれたのです。

不思議だ、と私は思いました。
なんらメリットはなさそうなのに。
私は、大して頭を下げていません。



そして、ある日、すごくいろんな人に守られていることが「わかった」と言った私に、ある友人が、「今?!」と笑いました。


それから、何人かの人と話す中で、何人かの人が、同じ評価を私についてしました。

それは、「純粋」という言葉でした。
だから、周りが守ろうとするのだろうと。
珍しいから。
そして、純粋がゆえに、ある種、浮世離れしているから、と。


私の親がたまに私に呆れたように言うことはありました。
どうやって、40もすぎて、そのように純粋でい続けているかが謎だ、と。
親は褒めてはいません。
お礼は言いますが、私について、ネバー褒めない、私の親は。笑

私自身の自己評価は、私はヨコシマなため、小さな悪魔といわれる方がまだピンとくるのです。



そして私は私のことしか知らないので、他の人のお腹の中が、どのようになってるかは知りません。

ただ、わたしのものがたりに登場する人々は、いい人たちだ、ということを、私は再確認したのでした。
実感を伴って。


同時に、それらの人が、私を守り、やりきらせようとすることが何かあるときは、私はそれをやりきる責任がある、と思ったのでした。

だいたいの場合、私がそれをやりきろうがやりきるまいが、世界にはなんら影響ない小さなことに私は取り組んでいます。

私の夢がかなおうが叶うまいが、世界には大差ありません。


それでも、いくつか抱えるそれぞれ別のこと、私が夢見る未来のものがたりを、守ろうとしてくれる人達がいる限り、わたしのものがたりの中で、私は純粋でい続ける必要があるだろうと思ったのでした。


そして、そう思ったとき。


私は自分が少しだけ強くなった気持ちがしたのでした。
それは、他の人の強さや知恵に、私が影響を受けた瞬間だったかもしれません。