他人を理解できるできない問題

これはまあ、私の仕事の関係もありますが、私がここまでの人生の中で、誰かから聞いたコミュニケーションに関わる話の内容でずば抜けて多かったのは、他人を理解できるできないにまつわる話でした。


そして、ダントツで多かったのは、「他人が自分を理解してくれない」でした。

その裏にはもちろん、「他人に理解してもらいたい」という願いがありました。

他人は特定の誰かのこともあれば、広く世の中をさしていたこともありました。


この2つですね、シンボリック・モデリングのファシリテーターに話しても、展開はしてもらえません。

なぜならば、最初の一つは問題で、後の一つは、望んでいる結果、ひらたくいえば、その人の望みでありますが、自分が主語ではないからです。


つまり、それは、自分ではない誰かにそう望んでもらわなくてはならない望みです。

一見わかりにくいかもしれませんが、これね、他人の心を自分の思うようにしたいという望みです。

できますか?できません。

そもそも相手の尊厳や心の自由を無視しています。

心は可視化できませんので、確認すらできません。

つまり、誰にもエビデンスが確認できず、叶えることが不可能なので扱いません。


ですが、非常に多い。

ずば抜けて多い。

それが、理解問題です。



「他人から理解されていると感じたい」ならば、展開可能です。


シンボリック・モデリングは、非常に現実的です。私はそこが好きです。


というわけで、ここ10年の私は、これを掘り下げるかわりに、ルール通りにこのように質問して参りました。


「そして、他人が自分を理解してくれないとき、あなたは何が起きてくれたら好いのでしょう?」


「そして、あなたが他人から自分を理解してもらうとき、他人があなたを理解していることを、あなたはどのように知りますか?」

もしくは、「そして、他人があなたを理解すると、その後、何が起きますか?」


誰かの話しをそりゃ無理やで、と、思わなくてよくなったことは、私の心を非常に軽くしました。

誰の願いも尊重したい、けれど、明らかに無理な願いもありまして、それを否定しなくてよくなったこと、わかりもせんのにわかったようなふりをしなくてよくなったことは、私を誠実な人にしました。

ただ、言葉だけを聴いて、ただそこから淡々と願いを抽出すればいいだけになったこと。



この話の構造を、私は「白馬の王子様モデル」と呼んでいます。

内容は変わっても、望む結果の構造自体はよく似ているものがゴロゴロ転がっています。

表現における主体性の欠如です。ようするに、自分は何もしないでどうにかなりたい話。

(最たるものが、私の眠り姫。笑)


この構造は、ビジネス案件でもよくありますので、使用する質問訳を、もう少しストレートな言い回しに変更して使います。


また、日常では、この質問をくだけた言い方で使うこともあります。

話が心ではなく、現実的なことの場合は、いったん、この質問を心の中で展開し自分の理解を確認します。

そのあと、「全てがこのような時、私は何をサポートしたいだろう?」と、自分がしたいサポートを確認します。


それから、必要なサポートを確認します。

そして、自分がしたくないサポートは、誰かできる人はおらんかったかいな?と、そのサポートをリソースとしている人を探します。


そうすると、私は、私がやりたいサポートしかしないですみます。

(たまには、やりたくないこともやっていますが、その場合は、リソースをぶら下げてやります)


クリーンランゲージとシンボリック・モデリングの合わせ技が、私にもたらしたのは、軽やかなサポート体制でした。



人の話を聞くのが楽になった。楽しくなった。疲れなくなった。という話は非常によく聞きます。


私個人の感想としては、人生がむちゃくちゃ平和になった、です。

今、私は、プライベートで二ヶ所ほど身内の介護サポートに入っています。

感情が渦巻くやっかいな状況で、私がケラケラ笑いながらそれらをこなせているのは、まちがいなく、クリーンなスタンスとシンボリック・モデリングのおかげだと思います。


「私は誰のことも理解できない」と、私がはっきり受容できているおかげだと思います。


でも、私には、寄り添うことはできる。

共に体験することはできる。

そうすれば、人には、誰にでも、ちゃんと選択する力も、希望を持つ力も、感情に振り回されない望む力もあると、たくさん見てきたおかげで信じられるようになったことだと思います。


大袈裟にいうならば、人類の未来は明るいな!と、さらに楽天的に思えるようになったことだと思います。人が望みを抱く限り。


1億年後は知らんけど。